− 世界文化遺産の史蹟を訪ねて −

       熊野三山と熊野古道など
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1.はじめに   世界遺産の熊野へ一泊旅行しました。  「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録  されています(2004年7月7日)。紀伊山地の霊場と参詣道とは、三重  県・奈良県・和歌山県にまたがる寺院や参詣道の総称です。   今回訪ねたのは和歌山県で、熊野三山と熊野古道などです。   今回の旅行は、私の参加している「楽しい歴史教室」の研修旅行です。  多くの社寺に祈願し、美味しい食事をよばれ、温泉で寛いだ楽しい旅でした。 2.熊野速玉大社   朝6時半に野洲市を発ち、鈴鹿峠を越えて三重県に入りました。  ひたすら南下して昼食を食べ、最初に訪れたのは熊野速玉神社(くまのはや  たまたいしゃ)です。三重県熊野市と熊野川を挟んで対峙する和歌山県新宮  市に入って直ぐの位置にあります。   熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)と呼ばれる大社  の中では、最も海に近い場所です。 20061018-19 kumano (1).jpg  鳥居も建物も、鮮やかな朱で塗られて いました。 昔から多数の皇族の御幸があり、後白河 上皇は33回も参詣されたそうです。 ←朱塗りの鳥居   ↓朱塗りの拝殿  20061018-19 kumano (2).jpg   境内に由緒書きがありました。  創建は遠い昔、定かではないようですが、ゴトビキ岩(天ノ磐盾)という岩  をご神体とした自然崇拝が源だそうです。原始信仰から神社神道へと移って  いった初期の神社のようです。   宝物殿を見学させていただきました。  沢山の貴重な品が展示されていました。京都あたりであれば、何かともった  いをつけて秘蔵扱いにしてしまうであろう国宝級の品を、さりげなく公開し  ていました。 3.熊野那智大社   新宮市を少し南下すると那智勝浦町に入ります。  熊野那智大社は小高い山の中腹にあります。バスは山のふもとのバス停まで  です。那智の滝はこのバス停から近いのですが、まずは大社詣でをしました。   20061018-19kumano (23).jpg  表参道は石段が続いています。 数百段の石段をあえぎながら登りました。 ←石段の参道   ↓朱の鳥居   20061018-19 kumano (21).jpg           鳥居をくぐると、緩やかな石段を少し登って到着です。                    ↓熊野那智大社拝殿                   20061018-19 kumano (3).jpg   この那智大社の創建も、時期が定かでない位古いようです。  もともと那智大滝の近くにあったのを、仁徳天皇5年(317年)に現在の  地に遷座した、という説があるそうです。ただし、延喜式神名帳(延長5年  (927年)に完成した神社の一覧表)には載っていません。 4.青岸渡寺   青岸渡寺(せいがんとじ)は、那智大社と隣合わせにあります。  本殿の屋根が改修中で、周囲が網に覆われていたため、全体の外観を拝する  ことはできませんでした。   多数の人がこの寺へ参拝しています。  それは、西国33ヵ所の第1番札所ということにもよるでしょう。 20061018-19 kumano (4).jpg  いつか33ヵ所巡りをすることを想定 して、私も納経帳をもとめました。  ←改修中の本殿     ↓本殿正面入口    20061018-19 kumano (5).jpg   寺伝によれば、仁徳天皇(312−399年)の頃、天竺(インド)から  漂着した裸形(裸行・らぎょう)上人が草堂を開いたのが起源だそうです。 20061018-19 kumano (6).jpg  境内から遠望する那智の大滝は絶景で す。 ←境内から見た那智の大滝                  青岸渡寺から那智大滝へは参道が連なっ                 ています。                 古い石段の道が歴史を感じさせてくれます。 20061018-19kumano (24).jpg ←那智大滝に向かう石段       ↓近くから見た那智の大滝      20061018-19 kumano (7).jpg   大滝の高さは133メートルで、高さ日本一を誇っています。  かの文覚が荒行をした滝(文覚の滝)は、大滝の下流にある由。文覚の情熱  を偲びたいと思いましたが、文覚の滝を訪ねる時間はありませんでした。   蛇足ながら、我が故郷の赤城山には不動大滝があります。  国定忠治の隠れ岩屋のすぐ近くにあり、高さ50メートルで、今でも滝に打  たれる人がいます。 5.補陀洛山寺   ここ那智勝浦町は、太平洋に面した温暖な地で、漁業が栄えてきた町です。  現在は、観光のひとつとして、ホエールウオッチングに人気が集まっている  ようです。   この地から、自らの意思か不可抗力かで、太平洋に乗り出して行った人、  あるいは辿りついた人が少なくなかったようです。  補陀洛山寺(ふだらくさんじ)の開山は、熊野浦に漂着したインド僧「裸形」  (裸行)によるそうです。補陀洛とは、古代サンスクリット語の観音浄土を  意味する語に由来するとのことです。   20061018-19 kumano (8).jpg  お寺は海に近い所でした。 小高い山のふもとにありました。  補陀洛渡海船が展示されていました。 ←入口          ↓本堂         20061018-19 kumano (9).jpg                     ↓補陀洛渡海船                 20061018-19 kumano (10).jpg   船に設けられた屋形は、四方に鳥居が建てられています。  補陀洛(観音浄土)を目指す僧はわずかな食料だけを積み、入口の戸は外か  ら釘で打ち付けられたそうです。南の海にあるとされた浄土を目指す渡海船  は沖で放たれ、おそらくは黒潮に乗って太平洋の彼方へ流されたのでしょう。   渡海船の消息は記録にないそうです。   補陀洛渡海は、足摺岬や室戸岬からも行われたそうですが、記録に残って  いる40件のうち、25件が補陀洛山寺から出発しているそうです。   古くは、補陀洛山寺を開いたとされる裸形上人が渡海し、その後18世紀  まで続いたとのことです。   6.川湯温泉    宿泊は川湯温泉でした。  この温泉は、その名の通り、川に温泉が湧き出ています。発見されたのは、  およそ700年前だそうです。   吊り橋の近くに「十二薬師如来」を祀る堂があるそうです。  1月12日に例祭が行われ、吊り橋にいろいろな「揚げ物」(張り子)が1  ヶ月間吊り下げられ、観光客の眼を楽しませてくれるようです。  これは、如来が山に里帰りするときの道案内として、しめ縄を川に渡して野  菜をぶらさげたのが始まりだとか。 20061018-19 kumano (12).jpg  泊まったのは大きなホテルで、眼の前 に露天風呂がありました。  混浴露天風呂です! ←如来が渡る(!?)吊り橋    ↓ホテル前の混浴露天風呂   20061018-19 kumano (11).jpg   川のせせらぎを聞きながら、湯に浸かって疲れを癒しました。  温泉好きの私は露天風呂に3回入りました。もしかしたら、豊満なご婦人と  一緒になるかもしれない..な、などという淫らな考えがあったわけではあ  りません!   昼間聞いた補陀洛渡海に想いを寄せ、句作に没頭していたのであります。       補陀洛も湯煙り立つや冬の宿   てる爺   昔の人々は、死というものをもっと身近かに感じていたでしょうし、修行  を積んだお坊さんにとっては、生と死を隔てる壁はほとんどなかったのかも  知れません。   煩悩の絶えない私などは、こうして湯に浸かるのが天国というものです。 7.熊野本宮大社    翌日は、まず熊野本宮大社を訪ねました。  川湯温泉から数キロ以内の近距離にあります。駐車場から見たときは平地に  ある感じでしたが、小高い丘の上にありました。   20061018-19 kumano (15).jpg  鳥居の奥に石段が続いています。 写真を撮って最後に上がろうとしたら、 深く礼をしてから鳥居をくぐるバスガイ ドさんの姿を見かけました。 ←木造の鳥居    ↓八咫烏の幟が立つ社務所   20061018-19kumano (22).jpg   八咫烏(やたがらす)は、神武天皇が熊野から東征するときの道案内をし  た(古事記)のだそうです。なぜ烏が敬われているかと言えば、烏は太陽に  向かって飛び立つ習性があるからだろう、ということです。   日本サッカー協会のシンボルマークにも、3本足の八咫烏が登場していま  す。これは納得です。サッカーの場合は足が多い方が便利だから。    私事ながら、野洲市では沢山の烏が近江富士をねぐらにし、我が農園の落  花生を全滅にするという悪行を働いたので、とても敬う気にはなれません。   20061018-19 kumano (14).jpg  熊野本宮大社の創建も、時期が定かで ないほど昔のことでしょう。 神武天皇の東征以前と伝えられているよ うです。 ←風格のある社殿   大社は、もともとは熊野川と音無川の合流点の中洲にありました。  ところが、明治33年(1900年)の大洪水で社殿のほとんどを失ったた  め、現在地に移されたそうです。 20061018-19 kumano (16).jpg ←大社のあった中洲(中央)    ↓移転前の社殿を描いた絵   20061018-19 kumano (13).jpg 8.熊野古道   京の都から熊野への参詣道は、大きく分けて5つあったそうです。  中辺路(なかへじ)は、大辺路・小辺路などとならぶ参詣道のひとつです。  平安・鎌倉の時代、上皇の熊野御幸は巡拝所と宿泊施設がある中辺路を通り  ました。   都から三山巡拝の総行程は約700キロで、往復には約1ヵ月かかった由。  後白河上皇の元永2年(1119年)の御幸では、総勢814人、馬85頭  が中辺路の尾根道を一列になって続き、蟻の熊野詣と例えられたそうです。 20061018-19 kumano (18).jpg  中辺路の古道を歩きました。 道の駅から牛馬童子像まで、およそ1キロ往復し ました。牛と馬に跨った像で、全体の高さは50 センチ程度です。  行幸した花山(かざん)法王の旅姿だという説 があるようです。 ←中辺路の熊野古道    ↓牛馬童子像   20061018-19 kumano (19).jpg 9.おわりに   熊野古道の散策を楽しんだ後、白浜で昼食を食べ、南高梅などのお土産を  買って帰路につきました。  ↓白浜で見たハイビスカス 20061018-19 kumano (20).jpg  熊野とは、神の在す場所という意味があるそ うです。 なぜ紀伊半島が熊野と位置付けられたかと言え ば、雨が多い温暖の地で、原生林が覆う深い山 地に恵まれているからではないか、と思います。   昔から、熊野詣では多くの人々に親しまれてきました。  昔の人たちにとって、熊野詣では大行事だったに違いありません。  今回、私たちはバスで駆け巡りましたが、だからと言ってご利益が少ないと  いうことはないでしょう。   今回のバス旅行には、中年の美人ガイドさんが同行しました。  ガイドさんは神社の門をくぐるとき、いつも深く礼をしていました。  そのガイドさん曰く、「神様を敬う気持ちは、神社まで詣でてくれることで  神様がわかってくださるから、お賽銭の金額を気にするまでもありません、  と出雲の神主さんからお聞きした」由。   多くの寺社に参拝した私たちは、これから神仏の厚いご加護を頂戴できる  に違いありません。                  (散策:2006年10月18−19日)                (脱稿:2006年11月29日) ------------------------------------------------------------------
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